安田国継 ~織田信長を槍で突き、森蘭丸を討ち取った男~
日本史の実行犯 「あの方を斬ったの…それがしです」
最終的に国継が辿り着いたのが、寺沢広高が治める肥前国・唐津藩(佐賀県唐津市)でした。広高は国継の旧友であり、立身出世を夢見た若い頃に「どちらか一人が大名になったら、残る一人を必ず高禄で召し抱える」と約束したそうです。そして、唐津藩8万石の主となっていた広高は国継を召し抱えて、当時の約束を果たしたと言われています。
旧友の許で晩年を過ごした国継は、唐津で亡くなりました。命日は慶長2年(1597年)6月2日。奇しくも「本能寺の変」と同日でした。死因は頬の腫物の悪化を苦にした自害だったと言われ、これは信長を刺し蘭丸を討った祟りであると噂されたそうです。
国継の墓は唐津城下の浄泰寺(じょうたいじ)に建立されました。そしてこの寺には、ある一本の槍が伝わりました。その槍は国継の愛槍と言われ、「本能寺の変」の時に織田信長を突いたものだと伝承されています。現在は唐津城で目にすることが出来ます。
(文/長谷川ヨシテル)